書状は今月、水戸市立博物館に個人から寄託されたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が調査しました。
这是本月由个人寄存在水户市立博物馆中的书信,东京大学史料编纂所的村井祐树准教授对其做了调查。
それによりますと、この書状は、今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が、近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。
根据调查,该书信是日本战国时统治着美浓地方(今岐阜县)的武将斋藤道三写给邻近地盘领主的,从其内容及署名等可以判断,该书信写于1552年左右。斋藤道三将自己的女儿·浓姬嫁给了织田信长。
書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について、「若造で至らない点もあるが、ご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。
信中写道,“知道你同信长关系十分亲密,我很高兴”,并且关于织田信长,道三还写道,“他还是个年轻人,一定会有考虑不周的地方,烦请您多多包涵,同他一直保持亲密关系。”
信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記」では、この書状が書かれた時期に、道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。
在织田信长的亲信所整理的记有信长一生的文献《信长公记》中记载着,在该书信所写时期,道三跟年轻的信长初次见面,他一下子就看透了织田信长的才能,当时的信长因出奇的打扮和行为举止而被周围人叫作“傻瓜”。
「道三は信長のことを非常に大事に思っているっていうか、気にかけているっていうことが、はっきりと示されていますので、『信長公記』の記述を裏付ける非常に珍しいし、貴重である書状であると」
“书信中很清楚地表现出了斋藤道三对织田信长的重视和挂念,是印证《信长公记》内容的非常少见,非常珍贵的书信资料。”