福沢諭吉が日本を発展(はってん)させるには、西洋文明を取り入れることが一番良い方法と考え、欧米(おうべい)の本を多く読み、また、多くの本を書き表しました。「西洋事情(じじょう)」、「世界国盡」、「文明論之概略」、「学問ノススメ」などを著書(ちょしょ)しました。「学問ノススメ」は当時のベストセラ-になり、10人に1人は読んだと言われています。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」というのは、「学問ノススメ」の真先(まっさき)に出てくる言葉(ことば)である。
1890年には大学を設けて外国人の教授(きょうじゅ)を迎え高等教育を開始(かいし)しました。そして 1898年にはそれまでの正課(せいか)を普通課(ふつうか)に吸収(きゅうしゅう)して、幼稚舎(ようちしゃ)。大学科と学年歴(がくねんれき)を統一、一貫(いっかん)教育が受けられる仕組みに改めました。
福沢は何度か政府(せいふ)の要職(ようしょく)に請われているようですが、一貫してそれを断ってあくまで民間で文明開化(かいか)に貢献(こうけん)しました。彼は政治的な活動(かつどう)を中心におく板垣退助(いたがきたいすけ)らとは完全(かんぜん)に立場(たちば)を異にしていたようです。
1901年2月3日、脳溢血(のういっけつ)のため死去。享年(きょうねん)66歳でした。
福沢諭吉の思想は、西洋近代の文明によるアジアの後進性(こうしんせい)からの脱却(だっきゃく)、いわゆる脱亜論(だつあろん)を説(と)き、また個人 (こじん)の独立(どくりつ)、自由(じゆう)、平等(びょうどう)は天賦(てんぷ)であるとして、儒学(じゅがく)に代わる実学(じつがく)の必要を主張(しゅちょう)するものであった。そういう意味(いみ)では近代的な思想といえる。ただ、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)には批判的(ひはんてき)で、日清戦争(にっしんせんそう)を熱烈的(ねつれつてき)に支持(しじ)した点では必ずしも、平和主義の立場ではなかったようでした。
◆注解◆
蔵屋敷(くらやしき)―储藏兼出售粮食的栈房。
仕(つか)えて―伺奉,做官,当官。
家柄(いえがら)―门第,家世。
塾(じゅく)―私塾。
オランダ―荷兰。
蘭学(らんがく)―兰学。江户时代中期以后,经荷兰传入日本的西洋科学。
緒方洪庵(おがたこうあん)―江户时代后期的医学家、教育家,兰学研究者(1810年―1863年)。
適塾(てきじゅく)―1838年、绪方洪庵在大阪开的兰学私塾。
染み込んで―渗入,铭刻。
第一人者(だいいちにんしゃ)―首屈一指的人物。
大立者(おおたてもの)―重要人物。
勝海舟(かつかいしゅう)―江户末期的政治家(1823年―1899年)。名为義邦(よしくに)、后改为安芳(やすよし)、通称麟太郎。号为海舟。
肌(はだ)で体験(たいけん)―亲身体验。
真先(まっさき)に―最前面的。
板垣退助(いたがきたいすけ)―政治家(1837年―1919年)。参加过讨幕运动。1881年组织自由党。曽是伊藤内阁和大隈内阁的内相。
幼稚舎―1874年,受福泽谕吉的委托,其学生和田义郎创办了少年私塾。初期名为[和田塾].后在1880年改名为「庆应义塾幼稚舎」。
正課(せいか)—正规的课程。
学年歴(がくねんれき)——学年,年级。
要職(ようしょく)——重要职务。
後進性(こうしんせい)―落后性。
脱却(だっきゃく)——摆脱,抛弃。
天賦(てんぷ)―天赋,天才,天赐。
脱亜論(だつあろん)―1885年,福沢諭吉在「时事新报」上发表论文,主张日本应该脱亚入欧。
日清戦争(にっしんせんそう)―即中日甲午战争