でも、漱石の二年のロンドン生活は実り豊かな結実(けつじつ)をもたらした。「文学論」や「文学評論」をはじめ、「カーライル博物館」、「倫敦塔」、「自転車日記」や「永日小品」などの直接的(ちょくせつてき)な作品(さくひん)はもとより、後年(ごねん)の漱石の作家としての文学的成功は、このロンドン生活の経験を抜きにしては考えられなかったでしょ。彼がこの国で経験(けいけん)したものは、「近代」そのものであって、ここにおいて漱石はイギリスから真に学ぶべきものは学びとったのである。
1903年、東京へ戻った漱石は、東京第一高等学校と東京帝国大学に迎えられ、「文学論」などを講義(こうぎ)した。
1904 年12月に漱石は高浜虚子(たかはまきょこ)に勧められて、句誌「ホトトギス」に「坊ちゃん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」を書き旺盛(おうせい) な創造力(そうぞうりょく)を示した。この時期(じき)の作品には、人生を余裕(よゆう)を持って眺めようとする傾向(けいこう)が強く、しゃれたユーモアや美的世界に遊ぼうとする姿勢(しせい)は「余裕派」と呼ばれ、当時の主流(しゅりゅう)であった自然主義(しぜんしゅぎ)に対抗(たいこう)する事になった。
1907年に漱石は東京帝国大学の教授の地位(ちい)を擲(なげう)って、東京朝日新聞社に入社(にゅうしゃ)した。専属(せんぞく) 作家としての第一作「虞美人草」以後、彼の作品はすべて朝日新聞に掲載(けいさい)された。「坑夫」、「夢十夜」、「三四郎」を経て、「それから」以後の漱石は、初期(しょき)の作風(さくふう)から次第(しだい)に実存的関心を深め、エゴイズムの問題を中心主題とするようになる。続(つづ)いて発表した「門」は「三四郎」、「それから」とともに「三部作」と呼ばれている。
1910年夏、漱石は胃潰瘍(いかいよう)で入院し、転地(てんち)療養(りょうよう)のために伊豆(いず)修善寺(しゅうぜんじ)に出掛(でか)けたが、そこで大吐血(とけつ)し、生死(せいし)の間をさまよった。
1912年に漱石は自我(じが)に忠実(ちゅうじつ)に生きようする主人公(しゅじんこう)の苦悩(くのう)と、自然を「考えずに観る」ことによって至(いた)る調和(ちょうわ)的心境(しんきょう)とを描いたもの――長編小説「彼岸過迄」を発表(はっぴょう)した。
この頃、再び胃潰瘍の発作(ほっさ)に苦しむが、学習院(がくしゅういん)で「私の個人主義」を講演、さらに随筆(ずいひつ)「硝子戸の中」を発表した。
1916年12月9日、未完(みかん)の大作(たいさく)「明暗」(めいあん)を書いていた漱石は、胃潰瘍が悪化(あっか)し、死去(しきょ)した。
◆注解◆
羽振り―声望、势力。
ビジョン―理想、幻想、梦想。
ホイットマン―惠特曼(1819-1892)美国诗人。
ギャップ―分歧、差距、隔阂。
通(かよ)いつめ―经常来往。
苛立(いらだ)ち―焦急、急不可待。
思いがけない出来事(できごと)―意想不到的事情。
全力(ぜんりょく)を投球(とうきゅう)―竭尽全力。
渡る浮き草―飘荡的浮草。
終止符(しゅうしふ)が打たれた―终结、结束。
不快が募(つの)って―留下了不快感。
しゃれたユーモア―双关语的幽默、讽刺。
地位(ちい)を擲(なげう)って―丢掉、放弃。
エゴイズム―自我主义。
胃潰瘍(いかいよう)―胃溃疡。
生死(せいし)の間をさまよった―徘徊在生死线上。