夏目漱石(なつめそうせき)は明治維新(めいじいしん)の前年(ぜんねん)の1867年に生まれた。夏目家はかつて裕福(ゆうふく)だったが、漱石誕生(たんじょう)のころはあまり羽振りがよくなかった。
幼少期(ようしょうき)には中国(ちゅうごく)の古典(こてん)を学んだが、のちに漱石の伝統(でんとう)の感覚(かんかく)を養(やしな)うのに役立った。その後、漱石は英文学(えいぶんがく)を学ぶ道を選んだ。英文学は彼と同世代(どうせだい)の若者(わかもの)にとって、新しい世界(せかい)、新しい秩序(ちつじょ)、新しいビジョンを約束(やくそく)する確かな道だった。
大学時代(だいがくじだい)の漱石は優秀(ゆうしゅう)な学生だった。老子(ろうし)の難解(なんかい)な神秘主義(しんぴしゅぎ)に関する批評(ひひょう)やホイットマンの民主的(みんしゅてき)詩に対する賛辞(さんじ)、自然(しぜん)を題材(だいざい)にした英国(えいこく)の詩(し)の伝統(でんとう)の分析(ぶんせき)などを書いた。そして1893年、英文学士(がくし)の称号(しょうごう)を得て、東京帝国大学を卒業(そつぎょう)した。優秀な成績(せいせき)と学士号は、英文学教授(きょうじゅ)としての未来(みらい)を約束しているように思われた。
卒業後、漱石は難なく、英語教授として東京高等師範(しはん)学校に就職(しゅうしょく)した。しかし、学問(がくもん)の分野(ぶんや)での輝かしい実績(じっせき)にも関わらず、漱石の心には空(むな)しさがつのるばかりだった。まもなく漱石は自分の人生と職業の間に越え難いギャップがあることに気付き、教師が自分に与えられた天職(てんしょく)ではないことはわかっていたが、それでは何をしたらよいかというと、漱石にはまだそれがわからなかった。禅(ぜん)の僧侶(そうりょ)のところに通(かよ)いつめたり、中学の教師として松山(まつやま) に旅立ったりしたのは、おそらくこのような焦(あせ)りや苛立(いらだ)ちからだったろう。
1895年、漱石は松山中学に赴任(ふにん)した。松山行きは、それを決意(けつい)した漱石以外、そのまわりの人々にとっては思いがけない出来事(できごと)だった。漱石が「生きながら自分を埋めるために行った」と言う松山で、彼は自分に三つの選択肢(せんたくし)のあることを知った。それは学問の道と、放蕩(ほうとう)の道、そして結婚(けっこん) だ。
松山で一年を過ごした後、漱石はさらに西に向かい、今度(こんど)は熊本(くまもと)の第五高等学校に赴任した。その後四年間、熊本で暮らす間、漱石は自分の内なる渇望(かつぼう)を満足(まんぞく)させるものを模索(もさく)し続けた。
熊本での生活は一見(いっけん)充実(じゅうじつ)しているように見えたが、漱石は満足(まんぞく)していなかった。教育者として成功(せいこう)してはいたが、文学の世界に全力(ぜんりょく)を投球(とうきゅう)できるように、仕事を変えたいとつねに言っていた。自分の心の奥(おく)深くに秘められた大切(たいせつ)なことを読みとり、それを表現(ひょうげん)するための自由な時間が欲しかった。そんな生活が続く中、1900年、大学卒業後七年に渡る浮き草のような生活に終止符(しゅうしふ)が打たれた。英語教師としての専門分野の研究(けんきゅう)のために英国に派遣(はけん)されることになったのだ。
夏目漱石が英国への最初(さいしょ)の国費(こくひ)留学生(りゅうがくせい)として、英文学研究のためにイギリスに来たのは、1900年10月28日のことだった。彼の留学期間は1902年12月までのまる二年余りに及んだ。
ロンドンでの漱石の生活はチェイス通りでの生活を含めて、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり」といわれています。確かにその不快が募(つの)って、帰国(きこく)の年、1902年の夏頃には、医師(いし)の治療(ちりょう)を要するほどの、今でいうノイローゼにかかったといわれていた。