1894年(明治27年)11月27日、和歌山県(わかやまけん)和佐村(わさむら)で、ナショナルの創業者(そうぎょうしゃ)となる、松下幸之助(まつしたこうのすけ)が生まれました。
8人兄弟の末っ子でした。松下という苗字(みょうじ)は、家が樹齢(じゅれい)数百年の大きな松の下にあったことから付けられたものだそうです。
小地主(じしゅ)の家で、本来(ほんらい)、家は豊かでしたが、やがて父が相場(そうば)で失敗(しっぱい)。幸之助は10歳で大阪の火鉢(ひばち)店に奉公(ほうこう)に出ます。そして、その後、自転車店、セメント工場等に務めた後、電気にあこがれて大阪電灯(でんとう)に入社(にゅうしゃ)。ここに7年間務(つと)めました。
そして22歳の時、独立(どくりつ)。妻と義弟(ぎてい)との3人で、自宅(じたく)の土間(どま)で作った電球(でんきゅう)ソケットの販売(はんばい)を始めます。最初は商品が売れずに苦労したようですが、やがて扇風機(せんぷうき)の受注(じゅちゅう)でなんとか回るようになり、翌年(よくとし)、松下電気器具製作所を設立するに至りました。
この後、松下はランプ、アイロンと商品を製作(せいさく)。 1930年にはラジオに手を染めます。当時のラジオは非常に故障(こしょう)が多く、ラジオ専門店のみが取り扱う商品でしたが、研究部の中尾哲二郎がさんざん苦心の末(すえ)、一般の電器店でも安心して販売できる、非常に故障の少ないラジオの開発(かいはつ)に成功(せいこう)した。これが東京放送局(ほうそうきょく)のラジオセットコンクールで1等に選ばれ、松下の名前は一躍(いちやく)有名になりました。
その後1933年には早くも事業部制 (じぎょうぶせい)を実施(じっし)、本体は松下電器産業株式会社に改組(かいそ)する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船(ぞうせん)、松下飛行機(ひこうき)などといった関連(かんれん)会社を次々と設立。戦後は一時GHQによる軍需(ぐんじゅ)工業解体(かいたい)の余波(よは)で苦況 (くきょう)に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取っていきました。松下が完全に復調(ふくちょう)するのは昭和30年代(1955年)に入ってからです。
国内での基盤(きばん)を少しずつ固めていく一方、松下は海外にも目を向けていきます。1952年には世界最大の電器会社オランダのフィリップスと提携(ていけい)。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていきます。
松下幸之助氏は経営者としても一 流ですが、経営に関する思想家(しそうか)としても一 流でした。事業部制を採用してそれぞれの部門が責任持って事業を推進 (すいしん)できるようにしたのもその一つですし、従業員との対話(たいわ)。企業の一体感(いったいかん)の維持(いじ)、などにも天才的な才能(さいのう)を発揮(はっき)しました。これだけ大きな企業を一代(いちだい)で作りながら、生涯(しょうがい)彼がクビにした社員はわずか数名であったとのことです。
松下幸之助氏はソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎、と並ぶ昭和の三大高志(こうし)。創業者ということができると思います。